暇にかまけて、昔のファイルなどを開いて見ていたら、サウジ時代に書いたものが出て来た。特異な体験だったので忘れてしまわぬよう書いたのだろう。詳細は記憶から消えていたから、読み直して、あぁ、そうだったと懐かしく思い出した。
我ながら良く書けているので(自画自賛)、ご紹介します。
プリンスの御殿
ある日、数週間後に帰国を控えていらした某メーカーの駐在員、S氏より電話があった。私に通訳を頼みたいとおっしゃるのだ。
数日後にリヤド入りされる日本の本社の社長と常務が、サウジのスポンサーであるM家に招待されていた。Mグループといえばプリンス系の財閥で、会長のプリンスKは国王の甥に当たり、またプリンスKの奥様は国王の妹、という、数多い王族の中でもより国王に近い、しかも傑出した家柄である。
本来ならS氏御本人が通訳を勤められるのであるが、今回はM家の特別の取り計らいによって、社長と常務はそれぞれ奥様を同伴されての来訪だった。
サウジアラビアに観光ビザはない。つまりサウジに旅行したくてもできないのだ。入国が認められるのは、サウジの会社、或いは個人が身元引受となっての、商用、もしくは親戚の訪問目的のみである。(イスラム教徒のメッカ巡礼は、また別枠。)
しかも一般に、女性の入国は非常に難しい。
近頃では日本の旅行会社が、XX視察という形で、商用を装った観光ツアーグループをサウジに送り込んでいるようだが、この場合でも、配偶者と一緒でない女性の単独参加はできない。
予定ではこのプリンスKの邸宅(以下、パレスと呼ぶ。当地では王宮を含みロイヤルファミリーの家はパレスと称される)にて、彼の二人の子息が、こちらもそれぞれ奥方を伴われて、社長と常務ご夫妻をもてなされる事になっていた。
奥方と呼ぶにふさわしく、イスラムの世界、とりわけ伝統を重んじるサウジアラビアでは、女性を人前に出すことはない。
(しかしこれは国内、つまり同胞の間において特にそうであるといったほうがいいかもしれない。)
S氏は、帰国に先立って、家族を一足先に日本に帰されていた。サウジの奥方が出席されるところに、独り者のS氏が同席することはタブーであった。よって急遽、女性の通訳が必要になったのである。4組の夫婦、合計8名の通訳として二人の通訳者が必要であった。S氏がすぐさまお願いされたのは、レバノン人と結婚され、リヤドにもう10余年在住のW子さん。そして彼女が私を推薦してくれた。
私には大役過ぎると案じながらも、「パレスに行ける!」という魅力が勝って、すぐさま承諾の返事をしてしまった。
私たちがサウジアラビアに住んで、2年2ヶ月が過ぎようとしていた。その間、サウジの人と接する機会は皆無と言って良い。普段は彼らから隔離された生活をしているのだから、それもいたしかたないと、半ばあきらめかけていた頃の、まさに夢のような話である。
しかも今回のお話は、単なるサウジ人に留まらず、プリンスだ。それもそんじょそこいらのプリンスとは違う、正真正銘のサラブレッド、王位継承権で5番目とも噂される人の御殿を訪問するというのだ。こんなスゴイ話、断わらいでか(関西弁反語)。
当日、私はかなり緊張していた。だいたい、私はいわゆる「お偉いさん」に弱いのだ。社長と聞いただけで、どこの社長でも緊張してしまう。待ち合わせのホテルへは、S氏の運転する車で、W子さんと共に行った。私たちが到着してまもなく社長、専務両ご夫妻がお見えになった。
社長ご夫妻の通訳は、当然の事ながらベテランのW子さんが担当されることになり、私は常務御夫妻付と言うことで、ちょっとは気が楽になった。
だが、ほっとばかりはしていられなかった。S氏から、「プリンスへの呼びかけにはユアハイネス(殿下)を使ってください」とお口添えがあり、私の緊張は一気に高まった。生まれてこのかた、そんな単語を口にしたことがない。
ちょうどその時、40歳後半とみえるイギリス人男性が現れた。S氏は彼をプリンスKの執事だと紹介した。私たちの道案内として迎えにやってきたようだ。「し、執事・・・。」小説の世界以外にも執事が存在したとは。パレスに着いて以降は、彼の姿はみることはなかった。
ホテルでS氏と別れ、一行を乗せた車はパレスが建ち並ぶ界隈へと向かった。ファハド国王のパレスのある一角は、向かいのアブドラ皇太子のパレスをはじめ、そこかしこに先代の国王であるファイサルやカリッドの子息などの多くの王族のパレスが集まっている。
国王と皇太子のパレスを隔てた大通りは、王がリヤドに滞在中には封鎖されるが、そうでない時は通り抜けることができる。ただし通過はできるが、停車はならない。ファハド国王は、国内にいる場合、ほとんどジェッダで過ごすので、この道が封鎖されることはあまりなかった。夫の会社からあてがわれている我が家の運転手であるMの運転で何度か通ったことがある。彼がツアーガイドさながら、これはXXのパレス、あっちはOOの、と説明してくれたものだ。
見覚えのある通りから、車は少し裏手へと入っていった。ある大きな門の前で車が止まると、門番によって物々しく、扉が開かれた。中には少し傾斜のある車寄せの道が弧を描いて玄関口にまで伸びていた。玄関には黒いスーツに、ネクタイをしめたボーイたちが整列して待ち受けていた。そんな中の一人、白いグトラに白いトーブ姿の長身の人物がひときわ目を引いた。私たちが車を降りると、めいめいをにこやかに歓待したこの人物は、プリンスKの息子の一人、プリンスSであった。彼に案内されて、私たちは建物の中へ招じ入れられた。
パレスに着いたのは午後8時頃だったと記憶している。辺りはすっかり闇に包まれており、建物の大きさが一体どのくらいだったのか検討がつかなかった。
屋内に一歩足を踏み入れて、私たちは目を見張った。高い天井からはシャンデリアが下がり、20畳はあるかとおもわれる玄関ホールは、それそのままで立派な客室のような趣があった。そこから更に奥に入ったところに、また別のホールがあった。ここから玄関は見えない。おそらくこちらは女性用のホールなのだろう。ここでプリンスSの妻であり、彼女自身も王族の血を引く、プリンセスMが私たちを待ち受けていた。背の高い女性である上に、ヒールの高い靴を履いていらしたので、背の低い私たちは常に見上げる格好になった。プリンスSの兄夫妻はあいにく急病のため欠席ということであった。通訳する相手が二人も減って、出だしは好調だ。
私たちはここで、それぞれのアバヤを黒い制服に白いエプロン姿のフィリピン人のメイドに預けた。ひざ丈のスカートから覗いた彼女たちの足が、妙に私の目をひいた。プリンセスは首が広く開いた、黒の長袖のロングドレスだった。足元はヒールの爪先が少し覗く程度まできっちり覆われているのに、それとは対照な艶かしい首もとが印象的だった。
このホールから三方に、さらに廊下が伸びていた。私たちは向かって左手の廊下を案内された。途中、本物の木が周りに植わった噴水が廊下の右手にあり、もし誰かのお付きをしてなかったら、「ひゃー、すっごい!」なんて、声を上げていたに違いない。が、ここは俄仕立てのプロを気取って、平然と常務の後に続いた。
水が貴重なこの国では、水は富の象徴なのだろう。ふとシャンデリアと噴水がひときわ目を引くリヤドの空港を思い出した。
通された所は、正直言って殺風景な、だだっ広い部屋だった。奥に、日本で言えばいろりのようなものがあり、装飾も少なく、ただ足のない座椅子のようなソファーが壁に沿って部屋を取り巻いていた。ちょうど、ベドウィンのテントを部屋にしたようなところだ。ここで家族がアラビックコーヒーをすすりながら団欒するのだろう。
アラブのしきたりよろしく、私たちは二つのグループに別れた。男性3人はW子さんを従えて、部屋を横切り、奥の片隅に腰を下ろした。私を加えた女性グループは、入り口から入って左手の壁に沿ってすわった。プリンセスが、これがアラブ流の方式なのですと説明した。
ほどなくアラビックコーヒーとナツメヤシの実が運ばれてきた。これらを頂きながら、プリンセスMの生まれてまだ数ヶ月という男の子と女の子の双子の赤ちゃんの話題になった。メイド任せにせず、できるだけ自分で世話をするように努めていること、なるべく男女の隔てなく育てたいと思っていることなど。海外経験が豊富なだけに、彼女の英語は、アクセントこそあれ、かなり流暢だった。
日本のご婦人方の御質問は、お立場上当たり障りのないものに限るよう心がけておられたのだと推測するのだが、それ故、家庭、料理、日本文化に話題は限定され、通訳者としてはありがたい反面、私個人としては物足りなく、心の中で好奇の気持ちが始終渦を巻いていた。しかし、その日私は完全な黒子でなければならなかった。私が通訳をしている相手のことを「私」と言うことはあっても、自らを「私」と称する機会はついに一度もなかった。
癖のあるカルダモンの香りと独特の苦みのアラビックコーヒーに不慣れな客人のために、しばらくすると、紅茶が配られた。こちらもアラブでよく飲まれる、砂糖がたっぷり入ったものである。チョコレートや小さなお菓子も出された。
他愛のない会話をしながら、1時間余りが過ぎていった。私のにこにこ笑顔もそろそろ引きつれそうになったころ、ようやくディナーへと場所を移動する事となった。
元来た道を戻り、今度はホールから更に奥まったところへ案内された。ボーイによって開かれたドアから中へ入ると、16畳ほどの小ぢんまりした部屋の中央に楕円形のテーブルが縦に置かれ、それを取り囲むように8脚のいすが用意されている。めいめいが腰掛けるのを手伝った4人の給仕は、その後両側の壁に二人ずつ直立不動の姿勢をとった。そしてこの後の食事の最中に彼らが皿を引き、次の食事を運び込んで来るタイミングはまさに絶妙であった。
楕円の食卓の奥の席に、プリンス、手前にプリンセス、両サイドが社長夫妻と常務夫妻。そしてご夫妻を割るように真ん中にW子さんと私と言う配置だ。プリンスの両側には男性、プリンセスの両側は女性という配慮なのだろう。
着席するや否やプリンスは、この男女を交えての会席がいかにサウジでは異例のものであるかを説明した。今回は、イスラム教徒ではない日本人のための特別の計らいであることを強調された。
ディナーテーブルでの会話は非常に興味深いものであった。プリンスSの父、プリンスKの運営する企業が、国内第三位の規模であること、また持ち馬数においては世界一の馬主であることなどを知った。(一般にはバーレーンの王家の所有が世界一と言われているが、一個人での所有となると、彼の右に出るものはいないそう。その数800頭。)
西洋で教育を受けたプリンスは、まだまだ新婚ではあったが、妻は一人以上持つつもりはないとも言っていた。
彼らは、生まれたばかりの子供たちのために、現在自宅を改築中で、工事がうっとおしいことを理由に、今は父の家に身を寄せていた。子供が産まれるたびに、家を改築するのであろうか?
そして、こうも付け加えた。自宅に住んでいる時でも、毎日昼食には必ず息子の家族全員が父の家に集まる。日ごろから四六時中この家に来ているので、あまり大差はないと。プリンスSには今回欠席の兄のほかにも数人兄弟がいるようだった。アラブ社会では年長者である父親の権力は絶対で、家族の絆はとても強いことを改めて知らされた。
ところで、この社長という方、とてつもない通訳泣かせで、急に何の脈絡もないことをおっしゃったりする。格言で来たかと思うと、古い和歌を紹介されたり、次々と突拍子もない話が飛び出して来て、さすがのW子さんも時折、ぎょっとされていた。が、そこはベテラン、卒なくこなされていた。
幸運なことに、常務のほうは、饒舌な社長に押されて、貝がごとし。奥様のほうも「うなずきトリオ状態」(古―い!)で、通訳するまでもなかったのだ。私はひたすら、フランス料理のフルコースにに舌鼓を打っていた。
メニューのひとつに、地中に埋まっているというアラブ特産のきのこがあった。差し詰めアラビック・トリュフといったところだろうか。フランスではトリュフはブタに捜し当てさせるが、ブタを不浄とするこの世界では、どうやって見つけるのだろう?
また、らくだの乳はとても栄養価が高く、その昔、妊婦はこれだけで妊娠期間中を過ごしたとか。特に白いらくだの乳は上質だそうだ。会話には登場したものの、あいにくこちらはメニューにはなかったのだけど。
ふと、全てのお皿にアルファベットが書かれているのに気がついた。めずらしいバカラの食器。その全てに、プリンスカリッドの頭文字が記されていたのである。
食事が済んで、再び場所を変える事になった。途中、玄関から入って右奥にあるマジュリスと言う部屋を見せてもらった。一瞬、ルーブル美術館へ来たのかと錯覚を覚えるほど、ルネサンス調のきらびやかな部屋には、壁一面もあろうかと思われる大きな油絵を始め、何枚もの絵が壁面を被い尽くしていた。恐らく有名な画家の手によるものなのだろう。アラビア語でマジュリスとはそもそも、部族の男たちの議会を指す。ここはきっと、男だけに許された団欒の場所なのだ。先ほどアラビックコーヒーを飲んだ殺風景な部屋とは大きな違いだった。
食事の後のコーヒーを飲む場所として案内された部屋は、部屋と呼ぶにはあまりにも広大だった。部屋の中ほどにギリシャの遺跡にあるような大きな円柱が4本、四角を描くようにそびえ立っており、ここでも中央には大きな噴水が水を吹き上げていた。
部屋は何段階かのステップ状になっており、中央に向けてだんだんと低くなっている。私たちは階段を下まで降り、部屋の一番低い所の一角に設けられた席に就いた。見渡せば、部屋のいたるところソファーや椅子、ローテーブルが配置され、さながら高級ホテルのラウンジのようだ。部屋の広さは、ホテルの1階部分全部はあろうか。きっとここはパーティー会場なのだろう。
たかだか8名の人間が、こんな広い場所の片隅でコーヒーを飲むのは、正直言って寒々しい感じだった。
コーヒーを飲み終えた頃はもう12時を回っていた。そろそろお開きという頃、客人のために用意された贈り物が運び込まれた。社長夫妻には、スークでも見かけるベドウィン女性の銀製装飾品、および、カラフルな糸で織られたベドウィン女性の衣装だった。常務夫妻にはジャンビアと呼ばれる銀製のアラブの刀。今でも男の証として祭りの時に踊りを踊る男性の腰にぶら下がっているのを写真などで見かける。スークで値段を尋ねたことがあるが、それほど状態が良くないものでも10万円近くしていた。
次に、私たち通訳にもめいめい小さな包みが手渡された。部外者である私たちがその場で贈り物を開くのは気が引けたので、礼だけを述べるにとどめて、楽しみは先送りにした。
家に帰って、中を開いてびっくり。金色のリボンで絞められた緑色のビロードの巾着袋には、21金の1リヤル金貨が3枚、それに香水の小ビンが入っていた。匂いをかいでまたびっくり。ショッピングセンターのお香屋の辺りで必ず漂っている、アラブ独特のあの香りがした。それは香の中でもアラブで最も重宝される、乳香の香りだった。乳香は、旧約聖書にもその名が登場するほど、古くから重宝されるアラブの特産品で、アラビア半島はこの貿易で栄えた。
体に着けるための香油だったが、こんな物を身につけた日にゃ、普通の香水でさえ苦手な日本人からは鼻つまみ者になることは目に見えている。それどころか、自分が耐えられそうもない。
W子さんと私は、いったいこの日の収穫がいくらになったのか、興味津々であった。彼女がさっそくこの香油の値段を調べたところ、親指ほどの大きさの瓶なのに、何と1本5百リヤル(約1万5千円)。香油なんて使えないから、お金でくれた方が良かったのにね、などと二人で話した。金貨のほうは1枚、当時のレートで3百リヤル余り(約9千円)だった。本物の1リヤル金貨ではなく(そういう物が存在するのかどうか知らない)、装飾用のレプリカである。締めて4万円余りの御褒美を頂いた計算になる。
更に、パレスを訪ねる機会を与えられただけでも充分だったのに、依頼主のS氏からはフェラガモのハンドバッグまで頂いた。W子さんのほうは、それなりの働きをされたわけだが、ほぼだんまりを決め込んでいた私には多すぎる報酬であった。が、もちろん辞退するはずもなく、全てありがたく頂戴した。
何より、サウジのプリンスの生活を垣間見ることができたことは、何ものにも代え難い貴重な報酬であった。
香油は、帰国前にイエメン出身の運転手Mへ、奥さんにプレゼントしてとあげてしまったのだが、今はあのアラブの香りが懐かしく、ちょっぴり後悔している。
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