2012年5月20日日曜日

異種移植

仙川環の「感染」と言うミステリーを読み終えたところ。

テーマは異種移植。
「ブタの心臓」を子供の心臓移植に使うと言うストーリー。

異種移植が非合法だと言う事を改めて知って、へっそうなの?と思ってしまった。
ブタの臓器なんて、とっくの昔に人間への移植に使われているように錯覚してたのに・・・。

なんでそう思ってたのかちょっと考えを巡らせてみた。

あ、思い出した!

うちのお姉ちゃん、小さい頃、食が細くて、身体も小さく痩せっぽちだった。

全然ごはんを食べないので、しょっちゅう両親に、
「ごはん食べられへんのやったら、ブタの胃と替えてもらう!」と言われていた・・・。

絶対これが私に誤った知識(?)を植え付けた根源でしょう。

シナコも周りの人からは「霞を食って生きてる」と言われたくらい、全然食べなかった。
けど、心優しい私は、両親のように脅したりはせず、取りあえず牛乳さえ飲んでくれてたらええわ、としていた。

へっ? 何ですか?
料理せんでええ口実やったら、子供の健康もかえりみないって?

2012年5月17日木曜日

出稼ぎから帰ってきたオカン

先ほど、数日のお仕事から戻って参りました。
今回は翌月のチケットを買っていたなどと言う、あほなミスもなく順当に帰って参りました。

家のドアを開けるや、玄関マットはぐちゃぐちゃ、脱いだ靴が散らかってる・・・。ジョダがたまにマットはぐちゃぐちゃにするんですが、私は都度直しておりました。

「何やのこれ〜」

こういうのは放っておけない質なのですぐさま整えました。

荷物はちょっと横においておいて、まずは手を洗って一息つこうとキッチンへ。流しの前に立つと洗剤が倒れてカウンターの上にオレンジの液体が流れ出してるわ、足下は水で濡れてるわ。

「ちょっと〜、何でここ濡れてるのよ〜。そんで見てご覧よ、洗剤倒れてるやんか。ちょっと、来てちゃんと拭いてよ〜」

洗剤なんか使ってないもん、私じゃない、と言いながらもしぶしぶ台所にやって来たシナコ。(なんで数日間この家にひとりでおって洗剤使ってへんねん。)

コーヒーを入れてちょっと一息と思ってふと見ると、

「えーっ! アリがいるやん! 何でよ、もう〜。アンタが食べ物を開けたまま放っておくからやん。もう、やめて〜!」

取りあえず見つけたアリを指でプチッと潰し、流しへ。
コーヒーを持ってリビングの方へ向かうと、

「なんで、こんなに散らかってるん。ほんまに、もう、いややぁ。片付けといてって言ったでしょ。こんなんするんやったらもう、出てってもらう! 後で絶対片付けて、掃除機をかけてよ!」

・・・はぁ。

そのとき、フェースブックを開いていたシナコを見て思い出した。

「そうそう、めっちゃ面白いYouTubeのビデオあんねん。ママのフェースブックにアップしてあるから」見てみて」

そのビデオを見て、ひとしきり笑ったシナコがひと言。

「ママ、そっくり」

・・・確かに。
あのビデオを見た時は、全く自分とは重ね合わさなかったものの、頭にこだまする先ほどの自分のセリフは、「パートから帰って来たオカン」そのものやん。

これがそのビデオです。
パートから帰ってきたオカン

2012年5月11日金曜日

ノースカロライナ州の憲法修正第1項

先週、ノースカロライナ州の憲法改正案が住民投票で可決された。
その内容は、結婚は異性間のもののみとし、同性婚および同性間の結婚に準ずる形を認めないと言うもの。

南部の州としてこうした憲法改正を行ったのはノースカロライナが最後の州だった。つまり他の南部の州ではとっくに同性婚は禁止されており、全米で州の憲法を通して同性婚を禁止しているのは30州あり(ノースカロライナが30州目)、加えて12州が法律によって同性婚を禁止しているそうだ。

実際に同性婚が合法化されているのは、マサチューセッツ、バーモント、ニューハンプシャー、ニューヨーク、コネチカット、アイオワのわずか6州とワシントンDCしかない。(ワシントン州とメアリランド州が部分的に承認。カリフォルニアは一旦認めたものの今は撤回らしい。)なのにニュースでは同性婚が認められたことばかりが報道されるから、そんなに多くの州が、逆に同性婚を禁じる動きに転じているとは全く気付いていなかった。

テレビも見ないし、ろくろく新聞も読まないので、ノースカロライナの憲法修正について知らされたのは、意外にもシナコから。

「ママ、知ってる? ノースカロライナは時代に逆行しているんだよ」と、先週、寮に迎えに行った帰りの車の中のこと。ルームメイトのリアと口を揃えて、この動向はおかしいと言う。

あれから1週間、我が家にはリアが居候中。

卒業生を除く学生は全員、先週寮を出なければならなかったのだが、リアのお母さんはノースカロライナ州のシャーロットからバージニア州のリッチモンドへの引越の真っ最中で迎えに来れず、行くところがないからと我が家にやって来た。

話を聞くと、同じ大学にいるリアの姉が今週末に卒業。卒業式に「両親」がやって来てくるから、それまでの1週間だけ、行き場がないとのこと。

リアが「両親」と言ったので、「じゃあ、お母さんだけリッチモンドに引越して、お父さんはシャーロットなの?」とたずねると、
「ううん、私と父とは縁が切れてるの。シャーロットにいるのは母の元パートナー。今は別れているけれど、まだ友達だから。彼女が私の義理の母なの。」

つまりリアにはお母さんが二人いて、それが彼女の「両親」なのだ。

私も数年前までは、まだ同性のカップルに対して違和感を持っていた。いえ、今でも、それがいざ自分の身内に降り掛かるとなると、素直に受け入れられるかどうか予測はできない。

けれど、本当に身の回りに同性カップルが多く、だんだん受け入れられるようになって来た気がする。

グリニッチでのお隣さんは男性のカップルだった。ベッツィーの息子もゲイだ。アンドリューの弟もゲイだ。高校時代にアリゾナに留学していたときに一番仲良しだったJoanと、Facebookを通して再会したら、彼女もレスビアンでもうすぐパートナーと結婚するって言っていた。キニコの高校時代の寮母さんの家族はレスビアンのカップルだった。数え上げたらきりがない。

歴史をひもといて見ると、ノースカロライナ州の「憲法修正第1項」と言うのは、実は過去にもうひとつあった。それは1875年の、「白人と黒人間の結婚を禁止する」と言うもの。この修正項は1967年に無効になるまで続いた。今回の修正は、1971年に新憲法が樹立されてから初めての修正になるのだが、過去の修正と同様に、いずれは無効になる運命を辿るのだろうか。

2012年5月9日水曜日

ヌーヨーク

無事に昨夜遅くカロライナに帰宅。
シナコに空港に迎えに来てもらい、タクシー代が浮きました。
なかなか使えるやん。

ニューヨークでの最後の夜は、ホテルの無料宿泊券がまだ余っていたので、友人のチカエとU子さんの二人も同じホテルに部屋を取って、朝から晩まで遊ぼうと計画。

先ほど、興味本位でまともに払ったら1泊幾らなんやろうと調べてみて、腰を抜かした。なんと1泊630〜680ドルですって! 絶対に自腹でなんか泊まれない。

前日、U子さんに連絡。
「噂で聞いたのですが、私がカロライナに引越してから出来た『ラーメンとっと』のラーメンがめっちゃおいしいとか。お昼は是非そこにしましょう!」

U子さんからの返信。
「・・・ジョダコさん、既にお昼は「15 East」、夜は「A Voce」ってことで話し合って決めて、それぞれのレストランに予約を入れておりますが・・・。」

たった2週間前に決めた予定だったのに、もうすっかり忘れておりました。
慌ててメールを打ちました。
「そうでござんした。トットのことはとっとと忘れてください、予定通りの決行で結構。で、ランチと夕食の間は何しましょう?」

またまたU子さんからの返信。
「あれあれ、ジョダコさんは、その後はハイラインを歩いて、その後中華街で「くこの実」を買って、その後は「足マッサージ」をしたかったんじゃなかったでしたっけ?」

・・・そんなことを言ったのも忘れてました。
あな、おそろしや、私の記憶力。

と言うわけで、その日の午後は、
チェルシーマーケット(私は行ったことなかったのです)→ハイライン(NCに引越してから出来た)→雨が降って来たので、ハイラインは早めに切り上げ→中華街。

中華街にて、昔時々行っていた「足のマッサージ」(足の裏のツボをぎゅーって押してくれるところ)のお店に行ったのですが(袁氏足部反射健康中心)、そのお店は潰れておりました。残念! でも似通ったお店があるに違いないと探して、見つけました!


「足舎 Foot Spa」ってお店。(84 Canal Street)
30分間が足、30分が背中(肩と腰)のマッサージをしてもらって45ドル。「袁氏」は足と簡易な肩もみ1時間で35ドルほどだったと記憶してますが、「足舎」の方はずっと小綺麗で、背中のマッサージもうつ伏せにベッドに寝て本格的なマッサージだったので、超満足!


チェルシーマーケットのFilling Stationってお店で、ザクロ風味のバルサミコと、ブラックトリュフ風味の塩をゲットし、中華街のスーパーにて、くこの実もゲット。あ〜嬉し。(料理もせーへんくせに。)

やっぱり、えぇなぁヌーヨーク。

2012年5月6日日曜日

タクシー

シリアのお店から一旦、チカエとマビオの家に行くことに。
土曜の夜はなかなか空車が見つかりません。
ようやくの思いで見つけた一台。

私が最初に後ろのドアを開け、乗り込もうかと思ったけれど、ゆっくり歩いて来るマビオを見て、ドアを開けてると、駐車している車との間が狭くてマビオは通りにくいなと彼を待ったほうがいいかなと。

反対側からチカエが乗り込んだ(と思った)ので、じゃあ私が真ん中の方がいいから、やっぱり先に乗り込もうかと考えた矢先、私が抑えているドアから誰かがタクシーに乗り込んだ。

一瞬何が起きたのかわからなかったのですが、反対側から乗り込んだのもチカエではなく、3人の若い女性があっという間にタクシーに乗り込んでしまいしました。文句を言う暇もなく、勢いドアが閉められ、タクシーは出発。

私が先に見つけたのに! ドアも開けてたし、足の悪い90歳の老人がそのタクシーに向かって歩いて来てるのに!

もう信じられへん!とぶーぶー文句を言っていたら、「過ぎたことは言っても始まらないでしょ、人生、こんなもの」とマビオ。さすが年の功。けど、やっぱり腹立つ!

チカエの家でしばらくくつろいでから、10時半を回ったのでおいとますることに。地下鉄でもそう遠くはないのだけど、お酒も入って眠たかったからタクシーで帰ることに。土曜の夜だからやはりなかなか空車は捕まりません。

しばらくしてやっと一台捕まり、「タイムズスクエアのXXホテルへ」

運転手さんとおしゃべりをしているうちにモロッコ出身と判明。今日二人目のアラブ圏の人。私は興奮してすぐさま得意のアラビア語を披露。

(ほら、よくガイジンで、日本語知ってると得意そうに、「アリガート、コンニチハ」(それしか知らない)言う人いるでしょ? こっちはまたかと苦笑するしかない、みたいな。私はソレのアラビア語版。)

彼が出稼ぎで、別れた奥さんと子供二人と、新しい奥さんと赤ちゃんをモロッコはラバトに残していること、最初の結婚で夢破れたので(せっかく出稼ぎしてお金をためて、やっと家族一緒に暮らせると国に帰ったら、奥さんから「亭主元気で留守がいいから戻って来るなと言われて離婚)、二人目の奥さんにはあまり期待もしてないし夢も持ってないんだ・・・とか言う話をしながら、タクシーはホテルへ到着。

少し気の毒でもあり、ちょっとチップを多めにあげました。

降りて見渡すと・・・一日中深夜まで、お正月の初詣のごとく人混みでまっすぐ歩けないタイムズスクエアの賑々しさがなく、ひっそりとしたビジネス街風。確かに某ホテルの前ではあるけど・・・雰囲気が違いすぎる。

通りかかったカップルに、ここは42丁目?とたずねると、「53丁目ですよ。」

ががーん! 同じホテルながら、違うロケーションで降ろされてました!

てなわけで、そこから20分ほどかけて、ホテルまで歩きました。こんなことなら最初から地下鉄に乗った方が早かった。

話に夢中で全く外を確認してなかった・・・。ほんまにお上りさん、且つアホ丸出しって馬鹿にしてるでしょ?。

酔いさまし&腹ごなしになって丁度良かったもんね。ふんだ。

ニューヨーク、NY

コネチカットに住んでいた頃はひと月に一回ほどのペースでマンハッタンに遊びに来ていた。ノースカロライナに越した後も飛行機で2時間、安い時には航空券は往復200ドルほどだから、1年に2回くらいは遊びに来られるかなって思っていたのに、やはり大阪-東京が近そうで遠いように、NYは思ったほど近くはなかったです。

ということで引越から約2年ぶりでようやくNYCの地を踏むことができました。今回は仕事は関係なく全くプライベート。日本はGWで暇になりそうだったのと、某ホテルの無料宿泊券が何枚もあって、その有効期限が今月末だったので、それを使いたかったこと。

旅の目的は、
1) 友達に会う
2) おいしい日本食を食べる
3) ブックオフで日本の本を入手する
4) 日本人美容師さんに髪を切ってもらう
5) 日本の化粧品を購入する

他にもまだ会う友人はいるものの、滞在1日目にして上記目的をほぼ全てクリア。

今朝はコネチカット時代に通っていた日本人美容師さんのところへ行きヘアカラー(外せません・・・)とヘアカット。

そこでチカエと落ち合い、蕎麦屋と言う日本食レストランへ。蕎麦屋へは私の元ホストシスターのスザーンもやって来て、3人でおしゃべりしながら、日本食を楽しみ、その後私とチカエでバーニーズ(デパート)へ。ここでお目当ての化粧品をゲット。

それからブックオフまで歩き、リストにあった本で在庫されていた物を片っ端から購入(18冊)。(ちなみに、読み終わった本を友人達にあげるために、ノースカロライナくんだりから、35冊抱えて来ました。)

そこからマビオさんの待つダウンタウンのスペイン料理屋さんへ行き、3人で食事。帰りに近くのシリア系のお店でバクラヴァ(アラブのお菓子)を買ってチカエの家でお茶するつもりが、シリア人のオーナーと意気投合して、「お茶を飲んで行け」とみんなでアラブ風のお茶をごちそうになり、買ったばかりのバクラヴァを食べました。

日本を追い求める旅に、懐かしのアラブの香りもプラスされ、大満足。

2012年5月5日土曜日

ったく!

今日はシナコを寮へ迎えに行った。

2日前に電話があって、
「1時じゃなくて、3時に迎えに来てくれない? 3時が提出期限のレポートがあるから。」
「はっ? ママはその日の夕方にニューヨークに行くって言ったでしょ。だいたい3時が期限だったら、その前に仕上げればいいでしょ。だめっ。予定通り1時に行くから、レポートも出して、荷造りもして待ってて。」
「・・・わかった。あ、それとリアも一緒に帰っていい?」

リアはルームメイト。秋からも一緒にアパートに住むことになっている。

「別にいいけど。何で?」
「行く所ないんだって。」
「はぁ?」
「お母さんはリッチモンドに引越すし、1週間後にしか来られないからって。」
「いいよ、うちは。」
「わかった。リアの荷物、夏中うちにおいておいてもいい?」
「置くとこあれば、別にいいよ。」

てなわけで、シナコとリアの二人と両方の荷物を取りに1時に寮へ行きました。
部屋へ上がると・・・案の定、荷造りは終わっておらず、部屋はしっちゃかめっちゃか。
さらにすごい量の物。

「えー、これ全部もって帰るの? 要らない物は捨てて来てよね。」
「えっー、もう全部、ごちゃごちゃに混ざってる。いまから仕分けしてる時間ない・・・」
「え、全部詰めたの? 私は一杯捨てたよ。山のようにゴミに持っててたでしょ。」とリア。
「ごめん、帰ってからやるから・・・」

あぁ、どうしてうちの子はこうアホなんでしょ。

ということで、要る物かゴミかわからぬ物で、一応運べる形になっている物から運び始めた。
3階の部屋から階段で、3人で1、2度往復し、後は私は主に下で受け取って、車に整理しながら積み込む係。

間もなく、運んで来るのはリアばかりになった。

「シナコは?」
「レポート書いてる」
「えーっ、やっぱり出来てなかったの」

ということで、うだるような暑さの中、私とリアだけせっせと働かされました。

ようやく3時前にレポートを出し、そこで私はタイムアップ。一旦3人で帰宅することにした。残りの荷物は私を空港に送ったその足で、二人が取りに戻ることになった。

帰ったら「お腹空いた」って言うので、ご飯を作らされ、食事の後、私は慌てて荷造りをし、5時過ぎに家を出発。

ニューヨークに到着後、10時過ぎに電話を入れた。

「もう寮は引き払ったの?」
「うん、全部荷物は出したよ」
「そう。今は二人で何してるの?」
「寮を引き払ってから、お腹が空いたから、どこか食べるところがないか探してるところ」

ここでぶち切れた。

「ジョダはどうなるのよ? 散歩も行かず、ご飯もやってなくて・・・。自分がご飯だって? 許せん! だめ! ご飯なんか食べずにすぐに帰りなさい!」

あれだけ二人に「ジョダのことよろしく」って言って来たのに。
あいつらに任せずにペットホテルに預けた方が、どんだけジョダは幸せだったか・・・。

2012年5月2日水曜日

プリンスの御殿


暇にかまけて、昔のファイルなどを開いて見ていたら、サウジ時代に書いたものが出て来た。特異な体験だったので忘れてしまわぬよう書いたのだろう。詳細は記憶から消えていたから、読み直して、あぁ、そうだったと懐かしく思い出した。

我ながら良く書けているので(自画自賛)、ご紹介します。

プリンスの御殿
 
ある日、数週間後に帰国を控えていらした某メーカーの駐在員、S氏より電話があった。私に通訳を頼みたいとおっしゃるのだ。 数日後にリヤド入りされる日本の本社の社長と常務が、サウジのスポンサーであるM家に招待されていた。Mグループといえばプリンス系の財閥で、会長のプリンスKは国王の甥に当たり、またプリンスKの奥様は国王の妹、という、数多い王族の中でもより国王に近い、しかも傑出した家柄である。
本来ならS氏御本人が通訳を勤められるのであるが、今回はM家の特別の取り計らいによって、社長と常務はそれぞれ奥様を同伴されての来訪だった。

サウジアラビアに観光ビザはない。つまりサウジに旅行したくてもできないのだ。入国が認められるのは、サウジの会社、或いは個人が身元引受となっての、商用、もしくは親戚の訪問目的のみである。(イスラム教徒のメッカ巡礼は、また別枠。) しかも一般に、女性の入国は非常に難しい。
近頃では日本の旅行会社が、XX視察という形で、商用を装った観光ツアーグループをサウジに送り込んでいるようだが、この場合でも、配偶者と一緒でない女性の単独参加はできない。
予定ではこのプリンスKの邸宅(以下、パレスと呼ぶ。当地では王宮を含みロイヤルファミリーの家はパレスと称される)にて、彼の二人の子息が、こちらもそれぞれ奥方を伴われて、社長と常務ご夫妻をもてなされる事になっていた。
奥方と呼ぶにふさわしく、イスラムの世界、とりわけ伝統を重んじるサウジアラビアでは、女性を人前に出すことはない。 (しかしこれは国内、つまり同胞の間において特にそうであるといったほうがいいかもしれない。)
S氏は、帰国に先立って、家族を一足先に日本に帰されていた。サウジの奥方が出席されるところに、独り者のS氏が同席することはタブーであった。よって急遽、女性の通訳が必要になったのである。4組の夫婦、合計8名の通訳として二人の通訳者が必要であった。S氏がすぐさまお願いされたのは、レバノン人と結婚され、リヤドにもう10余年在住のW子さん。そして彼女が私を推薦してくれた。

私には大役過ぎると案じながらも、「パレスに行ける!」という魅力が勝って、すぐさま承諾の返事をしてしまった。
私たちがサウジアラビアに住んで、22ヶ月が過ぎようとしていた。その間、サウジの人と接する機会は皆無と言って良い。普段は彼らから隔離された生活をしているのだから、それもいたしかたないと、半ばあきらめかけていた頃の、まさに夢のような話である。
しかも今回のお話は、単なるサウジ人に留まらず、プリンスだ。それもそんじょそこいらのプリンスとは違う、正真正銘のサラブレッド、王位継承権で5番目とも噂される人の御殿を訪問するというのだ。こんなスゴイ話、断わらいでか(関西弁反語)

当日、私はかなり緊張していた。だいたい、私はいわゆる「お偉いさん」に弱いのだ。社長と聞いただけで、どこの社長でも緊張してしまう。待ち合わせのホテルへは、S氏の運転する車で、W子さんと共に行った。私たちが到着してまもなく社長、専務両ご夫妻がお見えになった。
社長ご夫妻の通訳は、当然の事ながらベテランのW子さんが担当されることになり、私は常務御夫妻付と言うことで、ちょっとは気が楽になった。
だが、ほっとばかりはしていられなかった。S氏から、「プリンスへの呼びかけにはユアハイネス(殿下)を使ってください」とお口添えがあり、私の緊張は一気に高まった。生まれてこのかた、そんな単語を口にしたことがない。
ちょうどその時、40歳後半とみえるイギリス人男性が現れた。S氏は彼をプリンスKの執事だと紹介した。私たちの道案内として迎えにやってきたようだ。「し、執事・・・。」小説の世界以外にも執事が存在したとは。パレスに着いて以降は、彼の姿はみることはなかった。

ホテルでS氏と別れ、一行を乗せた車はパレスが建ち並ぶ界隈へと向かった。ファハド国王のパレスのある一角は、向かいのアブドラ皇太子のパレスをはじめ、そこかしこに先代の国王であるファイサルやカリッドの子息などの多くの王族のパレスが集まっている。
国王と皇太子のパレスを隔てた大通りは、王がリヤドに滞在中には封鎖されるが、そうでない時は通り抜けることができる。ただし通過はできるが、停車はならない。ファハド国王は、国内にいる場合、ほとんどジェッダで過ごすので、この道が封鎖されることはあまりなかった。夫の会社からあてがわれている我が家の運転手であるMの運転で何度か通ったことがある。彼がツアーガイドさながら、これはXXのパレス、あっちはOOの、と説明してくれたものだ。
見覚えのある通りから、車は少し裏手へと入っていった。ある大きな門の前で車が止まると、門番によって物々しく、扉が開かれた。中には少し傾斜のある車寄せの道が弧を描いて玄関口にまで伸びていた。玄関には黒いスーツに、ネクタイをしめたボーイたちが整列して待ち受けていた。そんな中の一人、白いグトラに白いトーブ姿の長身の人物がひときわ目を引いた。私たちが車を降りると、めいめいをにこやかに歓待したこの人物は、プリンスKの息子の一人、プリンスSであった。彼に案内されて、私たちは建物の中へ招じ入れられた。

パレスに着いたのは午後8時頃だったと記憶している。辺りはすっかり闇に包まれており、建物の大きさが一体どのくらいだったのか検討がつかなかった。
屋内に一歩足を踏み入れて、私たちは目を見張った。高い天井からはシャンデリアが下がり、20畳はあるかとおもわれる玄関ホールは、それそのままで立派な客室のような趣があった。そこから更に奥に入ったところに、また別のホールがあった。ここから玄関は見えない。おそらくこちらは女性用のホールなのだろう。ここでプリンスSの妻であり、彼女自身も王族の血を引く、プリンセスMが私たちを待ち受けていた。背の高い女性である上に、ヒールの高い靴を履いていらしたので、背の低い私たちは常に見上げる格好になった。プリンスSの兄夫妻はあいにく急病のため欠席ということであった。通訳する相手が二人も減って、出だしは好調だ。
私たちはここで、それぞれのアバヤを黒い制服に白いエプロン姿のフィリピン人のメイドに預けた。ひざ丈のスカートから覗いた彼女たちの足が、妙に私の目をひいた。プリンセスは首が広く開いた、黒の長袖のロングドレスだった。足元はヒールの爪先が少し覗く程度まできっちり覆われているのに、それとは対照な艶かしい首もとが印象的だった。
このホールから三方に、さらに廊下が伸びていた。私たちは向かって左手の廊下を案内された。途中、本物の木が周りに植わった噴水が廊下の右手にあり、もし誰かのお付きをしてなかったら、「ひゃー、すっごい!」なんて、声を上げていたに違いない。が、ここは俄仕立てのプロを気取って、平然と常務の後に続いた。
水が貴重なこの国では、水は富の象徴なのだろう。ふとシャンデリアと噴水がひときわ目を引くリヤドの空港を思い出した。
通された所は、正直言って殺風景な、だだっ広い部屋だった。奥に、日本で言えばいろりのようなものがあり、装飾も少なく、ただ足のない座椅子のようなソファーが壁に沿って部屋を取り巻いていた。ちょうど、ベドウィンのテントを部屋にしたようなところだ。ここで家族がアラビックコーヒーをすすりながら団欒するのだろう。

アラブのしきたりよろしく、私たちは二つのグループに別れた。男性3人はW子さんを従えて、部屋を横切り、奥の片隅に腰を下ろした。私を加えた女性グループは、入り口から入って左手の壁に沿ってすわった。プリンセスが、これがアラブ流の方式なのですと説明した。
ほどなくアラビックコーヒーとナツメヤシの実が運ばれてきた。これらを頂きながら、プリンセスMの生まれてまだ数ヶ月という男の子と女の子の双子の赤ちゃんの話題になった。メイド任せにせず、できるだけ自分で世話をするように努めていること、なるべく男女の隔てなく育てたいと思っていることなど。海外経験が豊富なだけに、彼女の英語は、アクセントこそあれ、かなり流暢だった。
日本のご婦人方の御質問は、お立場上当たり障りのないものに限るよう心がけておられたのだと推測するのだが、それ故、家庭、料理、日本文化に話題は限定され、通訳者としてはありがたい反面、私個人としては物足りなく、心の中で好奇の気持ちが始終渦を巻いていた。しかし、その日私は完全な黒子でなければならなかった。私が通訳をしている相手のことを「私」と言うことはあっても、自らを「私」と称する機会はついに一度もなかった。
癖のあるカルダモンの香りと独特の苦みのアラビックコーヒーに不慣れな客人のために、しばらくすると、紅茶が配られた。こちらもアラブでよく飲まれる、砂糖がたっぷり入ったものである。チョコレートや小さなお菓子も出された。
他愛のない会話をしながら、1時間余りが過ぎていった。私のにこにこ笑顔もそろそろ引きつれそうになったころ、ようやくディナーへと場所を移動する事となった。

元来た道を戻り、今度はホールから更に奥まったところへ案内された。ボーイによって開かれたドアから中へ入ると、16畳ほどの小ぢんまりした部屋の中央に楕円形のテーブルが縦に置かれ、それを取り囲むように8脚のいすが用意されている。めいめいが腰掛けるのを手伝った4人の給仕は、その後両側の壁に二人ずつ直立不動の姿勢をとった。そしてこの後の食事の最中に彼らが皿を引き、次の食事を運び込んで来るタイミングはまさに絶妙であった。
楕円の食卓の奥の席に、プリンス、手前にプリンセス、両サイドが社長夫妻と常務夫妻。そしてご夫妻を割るように真ん中にW子さんと私と言う配置だ。プリンスの両側には男性、プリンセスの両側は女性という配慮なのだろう。
着席するや否やプリンスは、この男女を交えての会席がいかにサウジでは異例のものであるかを説明した。今回は、イスラム教徒ではない日本人のための特別の計らいであることを強調された。

ディナーテーブルでの会話は非常に興味深いものであった。プリンスSの父、プリンスKの運営する企業が、国内第三位の規模であること、また持ち馬数においては世界一の馬主であることなどを知った。(一般にはバーレーンの王家の所有が世界一と言われているが、一個人での所有となると、彼の右に出るものはいないそう。その数800頭。)
西洋で教育を受けたプリンスは、まだまだ新婚ではあったが、妻は一人以上持つつもりはないとも言っていた。
彼らは、生まれたばかりの子供たちのために、現在自宅を改築中で、工事がうっとおしいことを理由に、今は父の家に身を寄せていた。子供が産まれるたびに、家を改築するのであろうか? そして、こうも付け加えた。自宅に住んでいる時でも、毎日昼食には必ず息子の家族全員が父の家に集まる。日ごろから四六時中この家に来ているので、あまり大差はないと。プリンスSには今回欠席の兄のほかにも数人兄弟がいるようだった。アラブ社会では年長者である父親の権力は絶対で、家族の絆はとても強いことを改めて知らされた。

ところで、この社長という方、とてつもない通訳泣かせで、急に何の脈絡もないことをおっしゃったりする。格言で来たかと思うと、古い和歌を紹介されたり、次々と突拍子もない話が飛び出して来て、さすがのW子さんも時折、ぎょっとされていた。が、そこはベテラン、卒なくこなされていた。
幸運なことに、常務のほうは、饒舌な社長に押されて、貝がごとし。奥様のほうも「うなずきトリオ状態」(古―い!)で、通訳するまでもなかったのだ。私はひたすら、フランス料理のフルコースにに舌鼓を打っていた。

メニューのひとつに、地中に埋まっているというアラブ特産のきのこがあった。差し詰めアラビック・トリュフといったところだろうか。フランスではトリュフはブタに捜し当てさせるが、ブタを不浄とするこの世界では、どうやって見つけるのだろう?
また、らくだの乳はとても栄養価が高く、その昔、妊婦はこれだけで妊娠期間中を過ごしたとか。特に白いらくだの乳は上質だそうだ。会話には登場したものの、あいにくこちらはメニューにはなかったのだけど。
ふと、全てのお皿にアルファベットが書かれているのに気がついた。めずらしいバカラの食器。その全てに、プリンスカリッドの頭文字が記されていたのである。

食事が済んで、再び場所を変える事になった。途中、玄関から入って右奥にあるマジュリスと言う部屋を見せてもらった。一瞬、ルーブル美術館へ来たのかと錯覚を覚えるほど、ルネサンス調のきらびやかな部屋には、壁一面もあろうかと思われる大きな油絵を始め、何枚もの絵が壁面を被い尽くしていた。恐らく有名な画家の手によるものなのだろう。アラビア語でマジュリスとはそもそも、部族の男たちの議会を指す。ここはきっと、男だけに許された団欒の場所なのだ。先ほどアラビックコーヒーを飲んだ殺風景な部屋とは大きな違いだった。

食事の後のコーヒーを飲む場所として案内された部屋は、部屋と呼ぶにはあまりにも広大だった。部屋の中ほどにギリシャの遺跡にあるような大きな円柱が4本、四角を描くようにそびえ立っており、ここでも中央には大きな噴水が水を吹き上げていた。
部屋は何段階かのステップ状になっており、中央に向けてだんだんと低くなっている。私たちは階段を下まで降り、部屋の一番低い所の一角に設けられた席に就いた。見渡せば、部屋のいたるところソファーや椅子、ローテーブルが配置され、さながら高級ホテルのラウンジのようだ。部屋の広さは、ホテルの1階部分全部はあろうか。きっとここはパーティー会場なのだろう。
 たかだか8名の人間が、こんな広い場所の片隅でコーヒーを飲むのは、正直言って寒々しい感じだった。

コーヒーを飲み終えた頃はもう12時を回っていた。そろそろお開きという頃、客人のために用意された贈り物が運び込まれた。社長夫妻には、スークでも見かけるベドウィン女性の銀製装飾品、および、カラフルな糸で織られたベドウィン女性の衣装だった。常務夫妻にはジャンビアと呼ばれる銀製のアラブの刀。今でも男の証として祭りの時に踊りを踊る男性の腰にぶら下がっているのを写真などで見かける。スークで値段を尋ねたことがあるが、それほど状態が良くないものでも10万円近くしていた。
次に、私たち通訳にもめいめい小さな包みが手渡された。部外者である私たちがその場で贈り物を開くのは気が引けたので、礼だけを述べるにとどめて、楽しみは先送りにした。

家に帰って、中を開いてびっくり。金色のリボンで絞められた緑色のビロードの巾着袋には、21金の1リヤル金貨が3枚、それに香水の小ビンが入っていた。匂いをかいでまたびっくり。ショッピングセンターのお香屋の辺りで必ず漂っている、アラブ独特のあの香りがした。それは香の中でもアラブで最も重宝される、乳香の香りだった。乳香は、旧約聖書にもその名が登場するほど、古くから重宝されるアラブの特産品で、アラビア半島はこの貿易で栄えた。
体に着けるための香油だったが、こんな物を身につけた日にゃ、普通の香水でさえ苦手な日本人からは鼻つまみ者になることは目に見えている。それどころか、自分が耐えられそうもない。

W子さんと私は、いったいこの日の収穫がいくらになったのか、興味津々であった。彼女がさっそくこの香油の値段を調べたところ、親指ほどの大きさの瓶なのに、何と1本5百リヤル(15千円)。香油なんて使えないから、お金でくれた方が良かったのにね、などと二人で話した。金貨のほうは1枚、当時のレートで3百リヤル余り(9千円)だった。本物の1リヤル金貨ではなく(そういう物が存在するのかどうか知らない)、装飾用のレプリカである。締めて4万円余りの御褒美を頂いた計算になる。

更に、パレスを訪ねる機会を与えられただけでも充分だったのに、依頼主のS氏からはフェラガモのハンドバッグまで頂いた。W子さんのほうは、それなりの働きをされたわけだが、ほぼだんまりを決め込んでいた私には多すぎる報酬であった。が、もちろん辞退するはずもなく、全てありがたく頂戴した。
何より、サウジのプリンスの生活を垣間見ることができたことは、何ものにも代え難い貴重な報酬であった。
香油は、帰国前にイエメン出身の運転手Mへ、奥さんにプレゼントしてとあげてしまったのだが、今はあのアラブの香りが懐かしく、ちょっぴり後悔している。