2011年6月11日土曜日

生きる話

コイオから、「キニコから父の日おめでとうってメールが来た」とあったので、「あ、父の日か」と早速日本の父に電話を入れた。

すると「父の日は来週やで。けど、かめへん、かめへん。おめでとうって言われるのはいつでもかめへん」と父。あらら、母娘して父の日を勘違いしておりました。

「あっそう? アメリカの父の日は今日やねん。ま、来週死んでたら、おめでとうとも言われへんからね。早い方が手遅れよりええでしょ」と私。(あとで調べたらアメリカの父の日も来週でした・・・。)

父も母も「後期高齢者」という域に達し、真面目な話、いつなんどき。
いえ、真面目な話、わたしだっていつなんどき。

少し前に友人からメールがありました。
義母が最近は流動食になっていると書いた私のメールに対する返事だったのですが、「胃ろうについてはよく考えた方がいいよ」って。

彼女の父親も同じくアルツハイマーで、誤嚥性肺炎に二度かかり、医者から胃ろうを勧められて、今は胃ろうになっている。一旦胃ろうにしてしまうともう経口では食事はできなくなるとのこと。彼女はメールに早く天に召してあげて欲しいって書いていました。

そのメールを読んで、私はコイオにメールを書きました。「胃ろうの選択を迫られたときにどうしたらいいのか、今からお兄さんと話し合っておいたほうがいいよ」と。医者から言われて、短期間で決断を下すのは難しいと思ったから。

今年の夏に帰省するときに、私の両親の意思も確認しておいた方がいいと思っていたのですが、今日の電話の折に、「ねぇ、延命についてどうしたいか決めておいてね」と言ったら、母が、「そんなのとーっくに決めてあるよ。書いて判もついてあるから。じいちゃんはね、どんな状態になっても生きたいって言ってるからよろしくね!」

(げ・・・。医者が見てないところで管を抜いたろ・・・)と思ったわけですが、その後、友人の父親の話と、今後実際に義母が胃ろうになる可能性があると言う話していたら、
「さっきのじいちゃんの話は嘘やから。私らは尊厳死したいから、そんなことして欲しくないから。ちゃんと書いてあるからね。私の知っているおばあさんも、意識がしっかりしているときに、本人に『胃ろうにしますか』と選択が迫られて断りはってん。すごい人でしょ」と母。

「私かって今は元気やから、そんなにまでして生き延びたいと思わへんけど、実際に体が全く不自由になって頭だけしっかりしている状態になったとき、ほんまにこのまま死んでもええって思えるかどうかは、自信ないわ」と私。

「私かってそれはわからへんけどね」と母。

その後、母と私の会話は延々続きます:

「私はお墓は要らんって言うてるねん。だってこの先キニコもシナコもどこに住むかわからへんのに、墓があるために守に戻らないとあかんて言うんは可哀想でしょ。だから『その代わりにママの写真を肌身離さず持っていてね』って言うたら、キニコは『それは嫌や』言うねんで。ひどいでしょ」
「私らはよその人を呼んで盛大なお葬式は要らんから。家族だけ集まってくれたらええから。お葬式にお金をかけられるより、私らが生きている間に、みんなで美味しい物でも食べに行きたいわ」
「そう言えば、ママたちはお葬式代が出る互助会みたいなの入ってたやん? あれで生前葬ってできないん?」
「さあ、そら知らん。」
「生前葬でお金が出るか聞いてみてよ」
「生前葬なんてして要らんよ」
「せえへんよ。そう言う名目でお金もらって、そのお金で皆で食べに行くんやん」
「・・・そんなん。あんなん入ったの大昔の話で、お金もらえても5万円くらいちゃうかな」
「え、そうなん? たったそんだけ。まぁええやん、ちょっとでももらえたら。聞いてみ、聞いてみ」
「・・・」
「ところでこの夏休みシナコが行くけど、よろしくね」
「構ってられへんから、何をするかちゃんと考えて来るように言うてね」
「言っても無駄やから、ママが言ってよ。私が言っても聞かへんし」
「それにしても、シナコはほんまに難儀やね。裕之(=弟)が、『ジョダ子姉ちゃんもたいがい強情で難儀やったけど、その娘はそれを何十倍に濃縮したくらい難儀やな』って言うてるよ。どんな育て方したん」

私がナンギやったということは決してあり得ませんっ!

「そやけどおんなじ育て方したキニコはまだマシやん。ま、最近マシになって来たってことやけど。シナコもなんとかならんかなぁ。そっちで躾けてください。お願いします。」
「そんなん、ただでは難しいわ」
「マジで、躾けてくれるんやったらお金払ってもええわ」
「めっちゃ高くつくよ」
「それでもええよ。なんとかして欲しい。・・・しょうもないこと話してたら、電話代が高くなるわ」
「あ、ほんまやね、じゃもう切るわ」
「けどさ、ママらが死んだら電話もできひんから、今のうちにお金がかかっても電話しとかなね。」
「そうや。生きてる間にお金使ってや。」

というわけで、「死」を話題にさんざん笑いました。
笑っていられる間は幸せです。

2 件のコメント:

  1. 「死」を話題にできるって、とても大切だよ。冗談交じりでも真剣な口調でも。
    そして、笑って話していられるって幸せです。母も歳を重ねているし、私も病気のエピソードがあったから、結構身近な存在なんだよね、死って。
    元気なうちにしっかり話しあえるって、夫婦の間でも、親子の間でも大切。
    それがこんなに笑い交じりで話せたの、よかったね。

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  2. 一昔前と比べると確かに私にとっても死は身近になって来たものの、でもまだまだ現実のものとして感じられないから笑っていられるのでしょうね。多分。
    でも確かに普段からどう生きたいか、どう死にたいか、死んだらどうして欲しいかって言うのを話しておく方がいいと思うわ。誰だっていつなんどきだもんね。

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